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Q.サラエンリヒト
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-19 50 63 65 58 47

経歴

1190年7月
 バティドック・サラエンリヒトの嫡子として元服しアルバッハ軍准将を拝命。
  


1190年11月
 第2次アルリヒト会戦において、インスレン軍と対戦。
  右翼騎兵を担い、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    インスレン領アルリヒトを制圧。
     


1191年1月
 シェルデルンの地の方面軍を解任、首都に戻る。
  


1191年3月
 この月の人事で、アルバッハ国、文官として処務にあたる任を司る。
  


1191年8月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくアルリヒトの地への赴任が決まる。
   


1192年1月
 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、
  アルリヒトの地をあとにする。
   


1193年2月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくビュフェルトの地への赴任が決まる。
   


1193年7月
 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、
  ビュフェルトの地をあとにする。
   


1194年6月
 地元の支持を得るべくヌーリンゲンの地への赴任が決まる


1195年2月
 恒例の祭祀に招かれた際、賓客として泰然たる振舞いで好感を得るなど、
  一定の成果は上げヌーリンゲンの地をあとにする。
   


1195年12月
 アントゥ・レクステルク元帥の指示によって、
  地元の支持を得るべくトルベルクの地への赴任が決まる。
   


1196年5月
 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、
  トルベルクの地をあとにする。
   


1197年3月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくモンベディーの地への赴任が決まる。
   


1197年8月
 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、モンベディーの地をあとにする。
  


1198年5月
 地元の支持を得るべくミットラーニの地への赴任が決まる


1199年2月
 住民支持向上の一定の成果は上げミットラーニの地をあとにする。
  


1199年11月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくブレーの地への赴任が決まる。
   


1200年4月
 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、ブレーの地をあとにする。
  


1201年3月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくブラウベルクの地への赴任が決まる。
   


1201年8月
 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、ブラウベルクの地をあとにする。
  


1202年5月
 ミロイ・フォリバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくアルリヒトの地への赴任が決まる。
   


1202年8月
 国内のリントル・マニソンと今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
  


1202年10月
 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、アルリヒトの地をあとにする。
  


1203年8月
 ジョルト・フルデバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくラベンルッツの地への赴任が決まる。
   


1203年8月
 その人脈を持って、エロリアン・ケンプハルト地方司令の叛乱計画を知り、
  城門を強行突破し帰路につく。
   


1203年11月
 ジョルト・フルデバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくベスソンの地への赴任が決まる。
   


1203年11月
 その人脈を持って、セラアム・マークセン地方司令の叛乱計画を知り、
  城門を強行突破し帰路につく。
   


1203年12月
 ジョルト・フルデバッハ宰相の指示によって、
  地元の支持を得るべくゲリクシーの地への赴任が決まる。
   


1203年12月
 この地のディディー・ロートラス地方司令の叛乱決断で、
  推考を迫られる


1203年12月
 この地のディディー・ロートラスの叛乱決起に気づくのが送れ、
  帰国の機会を得ず、やむなく配下となる。
   


1204年5月
 ディディー・ロートラス君主の指示によって、
  地元の経済の向上を目指しの地への赴任が決まる。
   


1204年6月
 ディディー・ロートラス君主の指示によって、
  地元の経済の向上を目指しの地への赴任が決まる。
   


1204年6月
 リントル・マニソン少将指揮のアルバッハ朝アッテンダン帝国軍にゲリクシー城を包囲される。
  


1204年6月
 アルバッハ朝アッテンダン帝国軍の猛攻を防ぎきれず、
  ゲリクシー城は落城する。
   


1204年6月
 アルバッハ国に首都ゲリクシーを制圧され降伏。
  捕虜となるも丁重に扱われ、アルバッハ朝アッテンダン帝国軍准将を拝命。
   


1204年7月
 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
  


1204年7月
 フォリソンの地を拠点とする、クラシヴァル・カルロスデンバー少将揮下の東部方面軍に配属。
  


1204年12月
 ブラウルク平原の戦いにおいて、
  デリベス軍と対戦。
   右翼を担い奮戦するが、敗戦。
    


1204年12月
 各地の民衆暴発により、赴任中のフォリソンの地は退路を立たれ、
  クラシヴァル・カルロスデンバーに従う。
   


1205年4月
 ラベンルッツ平原の攻防戦において、
  パルライター軍と対戦。
   左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
    侵攻作戦は成功。
     パルライター領ラベンルッツを制圧。
      


1205年4月
 アナカルトゥス・フォリバッハ准将指揮のもとパルライター国ラベンルッツ城攻略戦に参加。
  


1205年4月
 城内への強行突入に成功、ラベンルッツ城を陥落させる。
  


1205年10月
 ルーベシェイド山の攻防戦において、
  アーケイソン軍と対戦。
   参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
    アーケイソン領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
     


1206年1月
 君主クラシヴァル・カルロスデンバーに今後の忠誠を誓う。
  


1206年8月
 ラベンルッツ西の攻防戦において、
  エーインドル軍と対戦。
   右翼騎兵を担い、勝利。
    敵侵攻軍を撃退。
     


1207年2月
 フリーデンヴィト・エーインドル君主指揮のエーインドル軍にフォリソン城を包囲される。
  


1207年2月
 エーインドル軍の猛攻を防ぎきれず、フォリソン城は落城する。
  


1207年2月
 エーインドル国に首都フォリソンを制圧され、
  自らの命を絶った。
   享年 33歳。